☆産まれてから退院まで
産まれてすぐに搬送され、
数時間後には今夜が山です、覚悟してくださいと言われました。
その後、先生も驚くほどの回復を成し遂げ、しばらくICUで過ごし、NICUへ移動
母として私が唯一してあげられる事は
母乳を届ける事。
しかし私は母乳が出る方ではなく、
直接あげることもできないためすぐにでなくなり
何もしてあげられないと悔しい思いでした。
毎日の様子を看護師さんが連絡帳に書いてくれました、それを励みに楽しみに毎日面会へ行きました。
今日は抱っこできるかもしれない
今日はおむつを替えてあげられるかもしれない
初めてオムツ交換と抱っこをしたのは
生後3ヶ月を過ぎたころでした。
退院の日取りを知ったのは
退院一ヶ月前でした。
準備がとにかく大変で、機械がどれくらいあるのか、どれくらい場所をとるのか、機械のバッテリーはどれくらいもつのか、災害時はどうすればいいのか…
バギーもとても悩みました、
荷物も重くたくさん持って移動するので
すべて乗るバギーが必要です。
特別に作ってもらうなら、数十万するそうです。
すべての人が買えるわけではありません
私は市販のバギーに板を貼り使っていましたが
やはり重いので曲がったり外出中に重さでタイヤが壊れたりなどがありました。
たくま本人の事もまだまだ分からない事だらけの中
1週間退院前に病院で一緒にお泊まりしました、
1週間後には2人きりの生活です。
退院までに、数時間、数日などのたくまとの
一時帰宅などあればもう少し余裕を持てたかもしれないと思いました。
入院生活は五ヶ月間、
トータル4回の手術でした。
初めてたくまを連れて
病院を出た瞬間からもうすでに不安でした
バッテリーは本当にまだもつのか
急に眠ってしまわないか
呼吸器の繋ぎ方は間違ってないか
など、全てが命に繋がってしまうこの現状に恐さを感じました。
☆退院からひだまりのおうちに通うまで
毎日、生きてる?息してる?から始まります
もちろん、可愛いと感じる事もたくさんありました、でもそれ以上に何度も何度もなる呼吸器やアラーム、その度に最悪の事を一瞬にして考えてしまう日々。
赤ちゃんの時から、睡眠時間が短く癇癪もあり
最長で三日間寝ずに呼吸器を付けられないため入院したこともあり、普段から15分〜30分おきにおきるような状況も続きました。
丸1日癇癪をおこしっぱなしの時もあり
何度も息が止まり、吹き返すとまた癇癪の連続です、息が止まるなんて一大事ですがそれが当たり前のような日々、
毎日が生きるか死ぬかのような気分すら慣れてきてしまう状況でした。
そんな中でも一歳すぎた頃にはズリバイができるようになり
どんな困難にも立ち向かう姿勢のたくまに励まされました。
3歳になる少し前
癇癪も激しく、人工鼻もつけられず、手足過敏で何にでも触れられない裸足であるけない、かといって靴下も履けない、そして寝ない、何度もカニューレを抜く、頭をたたく打ち付ける、つねるなどの自傷行為のような行動も目立つようになってきました。
私自身もっと知識や余裕を持って接する事ができたなら、もっとたくさんの事ができたはずだと後悔している事もあります。
毎日が死と隣り合わせで、このこの命の責任全てが私にかかっていることがとても不安でした
3歳になるころ
ひだまりのおうちと出会いました。
最初のころは週に3回の通園。
車で30〜40分の道のりが1時間30分
時には2時間ほどかかりました
座ったままの車内では、おしりの重みと下痢でびらん部分がとても痛み、激しい癇癪に何度も車をとめて通っていました
☆通い出してできるようになったこと
オムツ交換が我慢できるようになった
持てなかったビニール製品
靴下も履けるように
歩けなかったカーペットやマット
食べられなかったもの、着れなかったもの
たくさんたくさんのりこえて
癇癪も明らかに減り、夜間眠る時間も増えました
人工鼻も自分からつけられます
そして今では夜間自分で呼吸器を付ける練習をしてもらっています。
小さな変化にもすぐに気づいてくれる先生のおかげで、体調が悪化することもなく、4歳まで過ごせています
もしもひだまりのおうちに通っていなかったら
私もたくまも余裕などなく私は辛いと感じていたかもしれません。とても感謝しています。

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